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痩せ細った3歳の鹿毛が、急に目の前で足を止め、頭をさっと振り上げると、かくも荒削りな馬にはまるで似つかわしくない、いたずらっぽい目つきで彼を見た。
「あいつは鼻先をわしにまっすぐ向けてきた」とSはのちにふり返っている。
「『あんた、誰?』とでもいいたげな顔で」男と馬はラチをはさんで、じっと向かい合ったまま、おたがいを品定めした。
Sの脳裏にひとつのイメージが浮かび上がった。
コロラドの山並みと、小柄で頑丈な牧牛に用いる馬。
ゲートに連れていく途中で、厩務員の少年がこの若駒を強く引っぱった。
Sは左右に揺れる動物のとも?瞥部から後脚にかけての筋肉を観察した。
確かに薄い。
だが、この馬にはエンジンが備わっている。
Sは競馬場のプログラムをめくって、この馬のデータを調べた。
若駒は不滅の名馬、Mの血統で、父はみごとなスピードを誇り、姿形も飛び抜けて美しいハードタックだった。
だがこの発育不良の若駒は、父祖の美しさや雄大さをいっさい受け継いでいなかった。
腹が地面につきそうなぐらい低い身体は、コンクリートブロックを思わせた。
鈍重で毛づやの悪い名馬の息子には、長身でつややかなハードタックの躍動感のかけらもなかった。
ずんぐりした脚は不安定な建物を思わせ、野球のグローブにも似た左右非対称の角張ったひざは、どうしても完全にはまっすぐにならず、おかげで若駒はいつも軽くかがみこんでいた。
不恰好な身体のせいで、歩く時は大きく股を広げるおかしな動きを見せ、よく脚が悪いと誤解された。
走れといわれると、地面におおいかぶさるような姿勢になり、ホースマンが″泡立て器の足並承″と呼ぶスタイルの、さらにコミカルなバーを披露した。
左前脚を前に振り出すと、まるでハエをたたいているかのように、横にびくびくっと動いてしまう。
ギャロップの脚運びもバラバラで、後脚のひづめで前の足首を蹴るというなんともいらだたしい癖があり、その動きをアヒルのよちよち歩きにたとえる者もいた。
こうした荒削りな要素に輪をかけたのが、それまでの出走歴である。
戦績で目をひくのは、驚くばかりの過酷な出走回数だけだった。
まだ3歳だというのに、すでに43レースに出走しており、これは普通の競走馬が生涯に走る回数を、はるかに上回っていた。
しかしその日もスターティングゲートでイラつき、ベルが鳴っても脚をふんばって動こうとしなかったにもかかわらず、なぜか若駒はレースに勝利した。
鞍をはずされながら、馬は大きく離れた知的な瞳を、ふたたびSに向けた。
Sはその目つきを気に入り、馬にうなずいて見せた。
「あいつ、このわしに向かってうなずき返しおった。
よくおれに気がついたな、誉めてやろう、といわんばかりに」。
あるファンが書いているように、この馬の資質の「ほとんどはハートにあり、そしてそれを最初に認めたのが、T・Sだった」のである。
言葉は足手まといだと考えるSは、あえて名前をメモしなかったが、それでも馬のことはしっかりと心に留めた。
その場を去りながら、彼の馬の名前はシービスケット。
そしてこの時、馬とT・Sが交わしたごく短い目配せは、向こう正面の奥にいたJ・Fという背中の曲がった調教師にとってはこの馬とおさらばできる吉兆だった。
シービスケットは、彼の長年の頭痛の種だったのである。
Fが3歳だった1877年のこと。
コニーアイランド・ジョッキークラブはBに声をかけた。
「また会おう」S一家が暮らすブルック。
の一画を買収し、文字どおり、家を取り囲むようにして競馬場をつくった。
馬場のなかに取り残された家の周りで次々にレースがくり広げられた。
かくしてジム坊や″S・ジム”の人生は、ものごころついた時から、競馬場と切っても切れないものになった。
彼の人生は最後まで競馬場を離れられなかった。
「わたしの望みはたったひとつ、馬たちと一緒にいることだけだった」とFは語っている。
十歳にしてFは、競馬場のキッチンで皿洗いを始める。
次いで見習い騎手として辛く苦しい修業の日々を送り、長じてジョッキーになった。
「ジョッキーの予防接種は受けていたんだが、まるっきり効かなかった」とは彼お得意のセリフである。
山あり谷ありの騎手生活を乗り切った彼は、鞍から降りると調教の仕事に手を染めた。
これは天職だった。
ほどなくFは、アメリカでもっとも成功したサラブレッド調教師として、名声を博すようになる。
Sがシービスケットと出会ったその6月、彼は61歳で、ひどい関節炎に苦しんでいた。
背骨の上半分が徐々に前かが承になり、そのせいで顔は完全に下を向いて、いずれは馬を、脚だけで識別しなければならなくなるのではないかと思われた。
硬直した身体でも、Fは驚くべき量の仕事をこなした。
平日はずっと馬の世話にかかりきりだったため、日曜日は終日寝てすごし、体力の回復に努めた.その労苦は報われた。
多くの馬が才能を開花させた。
ケンタッキーダービー、プリークネスステークス、ベルモントステークスのアメリカ三冠レースを総なめにした3頭のうちの2頭、ギャラントフォックスとオマハも彼が手がけた馬だった。
Fの偉大さは万人の認めるところとなった。
その名はアメリカじゅうに知れ渡り、調教師たちは彼に深い尊敬の念を抱いていた。
T・Sも例外ではない。
Sが畏敬の念を抱く人物は、F以外にはいなかった。
ふたりの調教師が結びつく一連の出来事が始まるのは、1928年のことだ。
この年、Fは、Sがのちにサフォークダウンズ競馬場で目を留めることになる若駒の父、ハードタックの調教を任された。
競馬界では東部の伝説的な存在であるホイートリー厩舎を経営するGと弟のOの持ち馬だったハードタックは、均整のとれた馬体の美しさと気品と目のくらみそうなスピードを兼ね備えた、銅色の名馬だった。
この馬は、なにからなにまで頂点をきわめていた。
たったひとつの欠点もふくめてパードタックは、どうにも御しがたい荒馬だったのである。
体重414キロのこの馬は、根っからの人間嫌いだった。
血を引くほとんどの馬に、多かれ少なかれ受け継がれていた.トラックでのヘイスティングスは、1896年のベルモントステークスのような由緒ある重賞レースで勝ちを収める一方で、わざと競争相手にぶつかり、ダメージを与えようとする癖があった。
そしてトラックを離れると、次々に厩務員を犠牲にした。
「彼は心を改めず、愛されないまま死を迎えた多くの厩務員の心と身体に、くっきりと刻印を残して」とPはA誌に書いている。
Hはスピードと気性の荒さの両方を息子のFに伝え、Fはそれを、比類なき息子Mに引き継いだ。
1919年と20年に出走した巨大な赤い怪物は、つねに相手を完全に圧倒し、トータルで百馬身もの差をつけて勝利すると同時に、無数の最速番狂わせ記録を打ち立てた。
Mが唯一敗北を喫したのは、偶然にもAと名づけられた若駒で、それは現在も、スポーツ史上もっとも衝撃的な敗北のひとつに数えられている。
おそらく史上最強の競走馬であるMは、引退後も精力旺盛な種牡馬として、競馬界に美しいマンイーター″人に噛承つく馬″をはびこらせた。
その典型的な例がウォーレリックである。
若駒のころ、ウォーレリックは厩務員を踏み殺し、その強烈な個性を広く知らしめた。
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